はじめに
みなさん、こんにちはビー玉です。
”日々のちょっとしたことで世界はもっとカラフルに見えてくる”をモットーにブログを書いています。
今回のテーマは、題名の通り大人が言う子どもにとって”よいこと”は果たして本当に子どものためになっているかというお話です。
私も子どもに関わる仕事をしていて、その子にとっていま一番大事なことはなんなのだろうかと悩むことがあります。
そんなある日、書籍『子どもを人間としてみるということ』を読んで、私が感じたこと、学んだことが何かの役に立てば幸いです。
大人が理想像を決めつけていないか
よく大人たちは子どもの将来を考えて、いまこれをすべきだ。
これくらいできていないと、こういう時はこうするのがいい。
などなど例を挙げるとキリがありませんが、レールを敷きすぎてはいませんか?
子どもが育っていく先の姿として、望ましい像を大人が想定してしまいそれに向かってこうすればいいとその手段を探していないだろうか。
望ましい姿を大人が思い描いてしまうと、目の前にいる子どもが、なにを楽しみ、どう物事に関わろうとしているか本当の姿が見えなくなってしまうかもしれません。
大人が気をつけなければいけないのは、その子にとってどうなることがいいのかということは、その子にとってのよいことはすでに決まっているものではなく、その子に共感し対話の中で作られていくことです。
子どもを理解できるはずと思い込んでいないか
とはいえ、その子がなにを求めているのか、どうなりたいのかは見えにくいものです。
そのことに対して悩んでしまうと、わからないことをわかろうとするあまり、本当のこととは違うことをわかったこととしてしまう…
そういうことが怖いことです。
私たち大人は、子どもをみるときに、子どものことを理解すること・わかることが必要であり、望ましいことと思ってはいないだろうか。
それはどこかで、大人が子どものことを理解できる存在、わかるはず。
そういう対象としてみてしまっているのではないか。
それは子どもを子どもとして見ていて、人としてみていないということかもしれません。
大人同士でも、相手のことを理解することは難しいものです。
なのに、子どものことは理解できるはずなど、なんと傲慢なことでしょうか。
子どもも、大人と同じくひとりひとり異なる人格を持った他者であり、全てをわかることはできるはずがありません。
わからないことは、当たり前のことなのです。
わからないということを当然のこととし、子どもと関わる時にわかること(正解)を探すのではなく、その子自身が抱えていることや、そのわからなさに寄り添って、わからないことも一緒になってわかろうとしていくことが大切なのではないでしょうか。
さいごに
大人は社会に出た時のためと、多くのレールを敷いているように思います。
失敗しないように、うまくできるように。
ですが子どもだって、多くのことを考えているし感じています。
大人がいまの感情を言葉にできないように、子どもだって聞かれてもわからないこともあります。
大人が見出した正解が正しいとは限らないのです。
私も子どもと接している時に、これは誘導しているだけなのではないか?
先日、砂場遊びをしている子に小さなシャベルを渡してあげました。私自身は、もっと楽しくなるだろうという思いで行動しましたが、それは子どもに寄り添っていたのだろうかと考えてしまいました。
その子にとっての世界を、もしかしたら壊してしまったかもしれない。
子どもにとっていいことだろうという思い込みが、その子を誘導してしまったのではないか。
大人が、勝手に敷いたレールに乗らなくても、彼らは多くのことを吸収しながら生きています。
私たちは、子どもたちのわからなさに寄り添い、その子の育ちへ信頼と期待を持って、関わっていくことが大切なのではないでしょうか。