緊急事態宣言。外出自粛。人々のストレス。人同士の傷つけ合い。
このご時世、集まって何かをすることができない。
1ヶ月以上、ポジティブな目的や目標を持って行動できなかった。
チームで何か目標に向かって進んでいない感覚。
子どもたちと何か大きなことを一緒にすることができない。
人生で寂しいと感じたことはない。だから外出自粛で人と会えないからストレスがたまるとかは決してなかった。それもただそう思い込んでいるだけかもしれないが。
なぜ自分が疲れているかわからなかった。今までより仕事中に体力を消耗することはない。勤務日数も減り、むしろ余裕ができるはずである。
しかし、なぜか先日思いの丈が溢れてしまった。
なんか疲れてるんですと。みんなで何かに向かって進んでいないこの状況がもどかしい。コロナ対策の話し合いは多い。どうこの状況に立ち向かっていくか。そういう話し合いは多くしてきた。
だけど結局、後ろ向きな話し合いなのではないか。
ただ日々をこなしていく。惰性ではない。ちゃんとみんなで考えて過ごしている。でもなんだろう。このなんとも言えない日々は。
ある日。それは5月13日。小学生グループと何気ないやりとり。
「あ、手が滑った」と言いながら泥を相手につけるだけ。これが妙に流行り、みんなで手や足を滑らせながら泥を互いにつけていく。
なんとも言えない楽しさ。
泥水の溜まった堤防を破壊して、水を流す。なかなか堤防は壊れない。これがなんとも硬いのだ。一年生の彼は木材を使いながら、僕は素手で。
お互いの担当箇所を削っていく。ゆっくりゆっくりと。
思ったようにはいかなかったが、なんとか堤防を削り、水を外に流した。
全身泥だらけになって、水のシャワーを浴びる。
次の日は全身が筋肉痛。腰はとても痛い。けれどもなぜか心は軽い。
職場の仲間と話しているうちに、気がついていく。
職場の仲間にこぼした、あのみんなで何かに向かっていない状況が辛い。だけど、それを子どもたちと向かった。ただ何も考えず、泥を相手に塗りたくる。堤防の破壊というゴールに向かって一緒の時間を過ごす。
あの遊びの時間は、僕の心の栄養だった。
楽しいと思っている。同じことをしたいと思う。子どもたちと同じ時間を共有すること。それだけで何か心が軽くなった。隠しきれないほど笑顔が溢れるのを感じた。
子どもに救ってもらった。何か考えすぎていたのかもしれない。この緊急事態宣言のなか、考えすぎるということはない。子どもの居場所を守るにはどうしたらいいのか。
でも、僕たち大人が楽しくなくちゃダメじゃん。
居場所ってなんだろう。居場所っていうのは人なんじゃない?
こんな言葉を思い出す。
子どもたちにいろいろと思い出させてもらう。本当にすごいなぁ。
遊ぶことの大切さ。遊ぶことを職業にしているのに、いろんなことが落ちていた。改めて感じる。いや本当に実感したのは初めてかもしれない。
”遊ぶことは生きること”